2010年08月01日
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弁財天から続く径路・これは古道なのだろうか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 早苗保育園前の道が勝利八幡神社よりも古い古道であるという仮説を立てて、勝利八幡神社に向かわない径路を辿ってみると、実はいくつかの分断があるものの道路が連続していることに気づきました。逆の径路を辿ると、実は京王線に近い北沢川支流の1つの水源(弁財天)を越えて先に進めることに気づきました。

 ちょっとラインを引いてみました。


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 黄色の線の先は、実はまだ引こうと思えば引けます。仮に引くとすれば鍋屋横町交差点の方に続きます。南の方が強引に引いても砧公園が限度です。その先はもう分かりません。

考察 §

 これが実際に古道の痕跡だとすると、時代は江戸時代よりもずっと古いことになります。仮定の前提とした勝利八幡神社よりも古いということは、「平安時代・万寿三年(1026年)に京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮より勧請し創建された神社」という年代よりも古いことになるからです。

 すると平安時代初期かそれ以前の自然発生的に使用された道ということになります。

 平安時代初期とすると、交通の軸は府中から多摩川に沿って品川方面に向かう北西から南東に向かう線になります。これに対して、この道は北東から南西に向かうことになり、直交します。実は、現在の環七や環八のように、都心に向かう道路ではなく、縦の径路として使用されれたと思うと割と筋が通るような気がします。しかし、関東の中心が鎌倉→江戸と移動したことですたれてしまったのかもしれません。

感想 §

 引いてみると実は行ったことがある場所ばかり。これは愕然。

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